映画・テレビ

2007年7月19日 (木)

何だかよく分からない、だけど好き

朝のテレビでデビッド・リンチの新作を紹介していた。

リンチ本人のインタビューも流れてた。

存在そのものが「ツイン・ピークス」みたいな人だなと思った。

まとっている雰囲気が「ツイン・ピークス」って感じなんだよね。

実のところ、この監督の作品はあまり見てない。

見たいと思ってはいるんだけど。

「ツイン・ピークス」はテレビで毎週楽しみに見ていた。

見逃した回はビデオを借りて見たし映画版も見た。

ホラーなのかコメディなのか分からない感じが好きだ。

おバカな日常の隣におぞましい闇がぽっかりと口を開けている感じ。

このドラマで何が起こっていたのか説明しろといわれても説明できない。

得体の知れない訳の分からない夢を見ているようなお話なんだけど、妙にその夢が気になって夢の続きを見たくなるような、私にとってはそんなドラマだった。

もともと私は訳の分からない映画が結構好き。

謎は謎のまま放置され、何も解決されない結末。

そんな映画が不思議と心地よかったりする。

リンチとは全く違うタイプだけど、タルコフスキーの「ストーカー」や「ノスタルジア」もよく分からないけど好きな映画だ。

そういえば、「帰ってきた時効警察」の、霧山クンが怪我をして三日月クンが代理で捜査をした回の脚本と監督は、オダギリ・ジョーなんだよね。

あの回の冒頭の三日月クンの夢のシーンを見て、「ツイン・ピークス」みたいって思ったのは私だけかなあ。

そんな匂いがしたんだけど、気のせいだったかな。

あのドラマも結末はきちんとしているようで、訳の分からない登場人物や必然性のない設定なんかが、あちこちに散りばめられていて、なんか不条理っぽい感じが心をくすぐるんだなあ。

そのうちに、「ふたたび、帰ってきた時効警察」なんて感じでシーズン3が始まるのが今から楽しみ~。

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2007年7月 2日 (月)

テレビを見て

テレビのドラマやアニメ、ニュースを見て、いろいろ考えていることが沢山ある。

そういうことを話題に話をするような相手がいないので、ブログに書いて発散したいと思っているんだけど、頭の中でいろんな思いがこんがらがって、何をどう書いたらいいのかわからなくなってしまう。

考えるだけ考えて、いっぱいに膨れ上がっているのに、取り出すことが出来ない不快感。

口に出せば「それだけ」のことなんだろうけど、文章にしようとすると、どこから手をつけていいのか分からなくなってしまう。

 

それでとりあえず「わたしたちの教科書」について少し書いてみる。

こないだ最終回だった。

このドラマはず~っと見ていて、胸に突き刺さる言葉がたくさんあった。

「神様は良い人間にご褒美をくれて、悪い人間に罰を与えるとは限らないのよ。良い人間が罰を与えられて、悪い人間がご褒美をもらうことだってあるの。」

珠子が言った台詞だ。

今の世の中を見ていると、確かにそうなのだろう。

不正を働いてぬくぬくと暮らしている人がいれば、真面目に努力してもどん底に落ちてゆく人がいる。

でも私は思いたい。

ご褒美だと思っていたものが、実はご褒美ではなかったり、まるで罰のようだと思っていたことが、実は罰ではなかった、ということがあると。

お金が沢山あることで不幸になることや、病気をすることで生きることの素晴らしさを知ることがあるように、良いことと悪いことは、その表面だけで捉えることは出来ないのだと。

このドラマの中にもそんな「良いことと悪いこと」が沢山あったように思う。

何がご褒美だったのか、何が罰だったのか。

勧善懲悪など幻想に過ぎない。

この世の中はそんな単純なものではない。

だからこそ理想が必要なのではないだろうか。

 

明日香の死はとても理不尽なものだった。

しかしその死から、人々は苦しみながらも多くのことを学び、変わっていった。

「世界を変えることはできますか。」

それは少女が蒔いた種。

あまりにも真っ直ぐな問いかけの言葉は、汚れたこの世の中では朽ち果てるだけの儚いものだったはず。

それが、少女が死ぬことによって芽吹いたのだ、悲しいことに。

 

大人の都合や事情で傷つく子供たち。

どんなに理想を掲げても何も変えることができずに、疲れ果ててしまった大人たち。

それじゃいけない。

最初に気付いたのは珠子だった。

結局世の中こんなものだと流されてしまっては、何も見えなくなってしまう。

明日香の死に目を瞑ることは、自分自身をも欺くことだ。

青臭い理想を掲げることに何の意味があるとでも言うように

周囲が裁判の無意味さを主張する。

明日香の死の真実をを知りたいという珠子の行動は、明日香を見殺しにしたとことへの贖罪の気持ちから湧き起こったものだったのだろう。

図らずもそこには、珠子が声を上げなければ、隠されたまま腐っていったに違いない多くの傷口が、癒されなければならない傷口があった。

珠子はパンドラの箱を開けたのかもしれない。

でも、真実はその中にしかなかったのだ。

多くの苦しみ、悲しみ、憎しみがあふれ出した。

そして最後に、明日香の真実を、珠子は見つけた。

それは小さな希望だった。

それは暗闇を照らす理想だったかもしれない。

どんなに世の中がねじまがっていても、理想がなければそのことに気付くことも出来ない。

理想なんて何の力もないものかも知れないけれど、理想があるからこそ、どれだけこの世の中が理想からかけ離れているのか気付くことができるのだ。

珠子がこの裁判を起こさなければ、明日香の蒔いた種は芽吹くことなく、理想を持つことの大切さも気付かれないままだったのだろう。

今この日本に、どれだけの明日香がいるのか。

どれだけの真実が、見つけられることなく朽ち果てていっているのか。

大切なのは、裁くことでも戦うことでもなく、真実を勇気を持って受け入れ、自分自身を欺くことをやめることなのだろう。

それが、なんと難しいことか。

 

最後に、明日香が自分自身に書いた手紙がみつかる。

彼女は自分への大きな愛に気付いたのだ。

自分を大切に思うこと、それは誰もが大切な自分を持っていることに気づくということ。

大切な自分、大切なあなた。

だから、誰も誰かを傷つけてはいけないのだ。

だから、誰も自ら死を選んではいけないのだ。

中学二年生の明日香がたどり着いたこの思いに胸を打たれた。

 

 

明日香より。明日香へ。
わたし、今日死のうと思ってた。ごめんね。明日香。
わたし、今まで明日香のことがあまり好きじゃなかった。
ひとりぼっちの明日香が好きじゃなかった。
だけど、ここに来て気付いた。
わたしはひとりぼっちじゃないんだってことに。
ここには8才の時のわたしがいる。
わたしには8才のわたしがいて、13才のわたしがいて、
いつか20才になって、30才になって、
80才になるわたしがいる。
わたしがここで止まったら、
明日のわたしが悲しむ。昨日のわたしが悲しむ。
わたしが生きているのは、今日だけじゃないんだ。
昨日と今日と明日を生きているんだ。
だから明日香、死んじゃだめだ。生きなきゃだめだ。
明日香。たくさん作ろう。思い出を作ろう。
たくさん見よう。夢を見よう。明日香。
わたしたちは、思い出と夢の中に生き続ける。
長い長い時の流れの中を生き続ける。
時にすれ違いながら、時に手を取り合いながら、
長い長い時の流れの中を、わたしたちは、歩き続ける。
いつまでも。いつまでも!

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2007年4月 9日 (月)

子供とアニメ映画を観て泣く母親

3月26日、次男と日本で一番有名な青い猫型ロボットの映画を見に行っってきました~。

何の予備知識もなく期待もなく行ったら・・・・・・泣けたよ。

今回の映画は、監督、作画監督ともに女性だったせいか、絵柄というか、描線が何となく優しくて、時々素朴なタッチになったりして、やわらかい感じがしました。

今回もまた、過去の作品のリメークなんですが、新しいエピソードを入れて脚本を書き直しているようなので、昔の作品を見た人でも楽しめるんじゃないかな。

ハリーポッターのような、愛と勇気と冒険と魔法の物語になっていましたね。

そして、子供を愛するが故に生まれる心の闇、そういうものが思いがけずも描かれていたので、胸を突かれてしまったのでした。

こういうのに私はとっても弱い。

そこのところが泣いてしまった理由。

人が誰かを愛したり、守ろうとしたりするせいで、心の闇に落ちてしまうってお話、結構ありますよね。

例えば、スティーブン・キングの「ペット・セマタリー」。

子供を交通事故で亡くした父親が、子供を蘇らせてしまったことで起こる悲劇。

蘇らせると言えば、「ハガレン」もそう。

死んだ母親を蘇らせようと、禁忌を犯してしまう。

もう一度母親に会いたいというあの子達の気持ちが痛いほど分かるから、すっかり感情移入してしまう~。

愛情ゆえに、禁忌を犯したり悪魔に魂を売るようなことまでしてしまう。

ゲームの中にもそうした設定が出てきたりします。

「ポ●ロクロイス物語」(検索よけのため伏字です)という大好きなロールプレイングゲームがあるんですが、娘を心配してゆれる母親の心の隙間に闇が入り込み世界が崩壊の危機に・・・というエピソードがでてきます。

これがゲームの核となるエピソードで、世界は救われるけど悲しい結末が・・・。

ゲームなのに泣けてきちゃう。

「ソフィーの選択」という映画はちょっと闇の意味合いが違うけど、これも私の中では子供と母親の悲しいお話。(でも子供と母親の映画ではありません。)

残酷な選択を強要され、ナチスの強制収容所へ入れられたソフィー。

それでも何とか子供を助けようと画策し、必死に生き延びて、戦争の終結と共に開放されたが、彼女は子供と再び会うことはできなかったのです。

開放された彼女には、ひとかけらの希望も残っていませんでした。

彼女の中にあったのは重い十字架だけ。

それは誰が許しても彼女自身が決して許すことのできない罪。

そんなソフィーをあのメリル・ストリープがびっくりするくらい美しく儚げに演じていました。

見終わって、とっても辛い映画です。

ドラちゃんの映画はハッピーエンドですが、そんな色々なお話が頭の中に勝手に展開して、自分自身の思い入れも加わって、涙が出てきて出てきてどうしようかと思いましたよ。

美夜子が長かった髪を短くしたという話が出るあたりは、女性監督ならでは細やかなエピソード作りかなあ。

そんな何気ないシーンでも、美夜子の気持ちを思うとじわっとくるんです。

最近、涙腺が壊れているんじゃないかと思うほど涙もろくなっているようです。

だから子供と一緒にアニメを見るのはちょっと恥ずかしい今日この頃です。

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2006年11月17日 (金)

ビスコンティ

シネマの扉でビスコンティ特集やってた。

独身時代は映画館へ足を運んでビスコンティ観たなあ。

結婚して子供を育てて、随分長いこと忘れていた。

毎日の生活の中で自分の好きなことが全部吹っ飛んでた。

趣味といえば月に一冊マンガ雑誌を読むくらい。

ブログに手を出してから、自分が好きだったことを思い出した。

それまでは記憶喪失にでもかかったように忘れていた感じ。

本当は忘れていたんじゃなくて、封じ込めなければならなかった、のかな。

ビスコンティの映画では俳優が他の作品に出演した時とは段違いに魅力的だったりする。

バート・ランカスターは特に好きな俳優ではないけれど

「山猫」の彼は大好きだ。

他の監督作品の彼とは別人に見えるほどすてきだ。

ヘルムート・バーガーだってビスコンティ作品では光り輝いている。

アラン・ドロンだって、ロミー・シュナイダーだってビスコンティ作品では

他では見られない魅力を醸し出している、と私は思うんだけど、

それは単に私の好みなだけなのかも知れない。

これから次々とビスコンティ作品が放送される。

ビデオテープ買いに行かなくちゃ。

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2006年5月22日 (月)

優しい時間

4月に「優しい時間」の再放送をやっていた。

本放送(と言うのかな?)は見てなかったので、今回は見たいと思っていたのだけれど

何となく見そびれて、最後のほうになってから見始めた。

細かいことで(北海道弁の使い方とか)いろいろ言われていたようだけど

いい作品だと思った。

何がいいって、キャストがとっても良かった。

みんな役にぴったりだったと思う。(最後のほうしか見てないんだけどそう言っちゃう)

特に、嵐の二宮くん、良かったね~。

拓郎役は彼以外考えられないくらいだ。

とっても素直で、純粋な感じを醸し出していて、もし二宮君本人が

この役とまったく正反対の人間だとしたら、恐ろしい演技力だと思う。

私としては、二宮君自身が持つ素朴な魂が、こういう演技につながっていると思いたい。

そう思うほど拓郎という役が好きになってしまった。

麿赤児演じる皆空窯の師匠が拓郎の父親に、なぜ息子を許してやらないのかと叱るシーンで、「俺はアイツがかわいくてしょうがない」というようなことを言った。

見ている私も、ほんとにそんな気持ちになっていた。

こんなにいい子なのに、こんなに苦しんで、なんとかしてあげたい気持ちになってしまう。

ただのドラマなのに、作り話なのに、拓郎の悲しみを思うと胸が苦しくなってしまう。

だぶん、あまりにも素直で無防備な魂は簡単に傷ついてしまう。

純粋さ故に傷ついても、その純粋さ故に彼を守ってあげたいと思う者が現れる。

だから、傷ついても傷ついても立ち直りたくましくなっていける。

これが私の中の拓郎の印象。

 

寺尾聡もよかった。(どんどん父親に似てくるね)

父親の苦しい気持ちもわかる。

誰も誰かを傷つけようなんて思っていないのに、お互いに傷ついてしまう。

そうだよね、家族ってひとりが苦しいと皆苦しいし、ひとりが傷つくと皆傷ついちゃうんだよね。

長澤まさみちゃんも初々しくて良かった。

平原綾香が歌う主題歌の「明日」も良かった。

とても好きな曲なんだけど、この曲を聞くとドラマのことと、その時の苦しかった自分自身のことを思い出してどうしても涙が出てきてしまう。

ダンナもドラマを見てすっかりこの曲を気に入って

「この曲聞くと落ち着くんだよな~」なんて言って曲をかけるんだけど、

私は苦しくなって涙が出るので、やめてもらいたいものである。

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2005年9月21日 (水)

いい加減、目覚めなさい!

と言われていたのは、私のような大人だったような気がする。

「女王の教室」の最終回を見ながらそう思った。

ゆとり教育が始まった時、敏感な人たちはすぐに気付いた。

国民の二極化が進むと。

一握りのエリート指導者層と、それ以外の 単なる歯車のひとつとなり 不満はあっても諦めるしかない労働者層。

公立の学校がゆとり教育で右往左往し、子供達の学力が落ちていく中で、

勝ち組と言われる人々の子供達は私立の名門に学び

お金と時間をたっぷりとかけて教育され、勝ち組への道を歩み始める。

持てる者と持たざる者の格差はますます広がっていく。

それでいいの?このままでいいの?諦めていいの?

そう問われていたのは大人の方ではなかったか。

情けない大人たちを見限って、真矢は種をまき続けようと決心したのだろう。

未来に向けて種をまき続けよう。

それはいつか奇跡の花を咲かせるかもしれない。

真矢のやり方は、子供達の可能性を信じた賭けだったと思う。

とても危険な賭けだった。

一歩間違えば子供達をつぶしてしまう。

だから文字通り寝食を忘れて子供達を見守り続けた。

真矢自身も自問していたのではないだろうか。これで大丈夫?間違いない?

それは、いつも自信満々で自分を疑う事などないかのような真矢が

初めて口にしたこんな言葉からも想像できる。

「自分を素晴らしい教師と思った事なんか一度もありません。

どんな教師を素晴らしいと言うのかさえ、まだ分かりません。」

ストイックに理想の教師像を求める 真矢の姿勢が分かる言葉でもある。

   

真矢の力もさることながら、和美という優等生がいなければ、クラスはどうなっていただろう、とも思う。

「ちょっとまって、本当にこれでいいのかな・・・。」

いつも立ち止まって考える、疑問を投げかける、和美の勇気。

彼女の勇気のおかげで、みんな 大切なことに気付いていった。

「みんな幸せになれると思います。」なんて、あの年の子供が言えるだろうか。

そんな和美によって、子供達は真矢の心に気付いていく。

子供達の未来は、決して平坦ではないはず。

様々な困難にぶつかった時、きっと子供達は真矢を思い出すに違いない。

こんな時、真矢はなんて言うだろう、真矢だったらどう考えるだろう。

真矢という光は子供達の中で道標となって輝き続ける。

 

子供達もまた、真矢の光なのだ。

「どうしてそんなに頑張れるんですか?」

子供達が小さな奇跡の芽を見せてくれるから、

その芽が成長し、花開き、やがて実を結ぶその時を信じているから。

和美のようにたくましく未来へと歩みだす子供達こそ

真矢の原動力であり、喜びなのだと

真矢の笑顔は語っていた。

 

 

涙もろいたちなので、最終回はぼろぼろでした。

真矢がパソコンに向かいひとりで卒業式をやったシーンが好きです。

真矢はああすることで、ひとりひとりに卒業証書を渡したんですね。

このドラマを見ていて強く感じたのは

大人よ、しっかりしろ、というメッセージでした。

大人がしっかり生きなきゃ、子供だってしっかり育たないぞ、と突きつけられたようで

反省させられます。

ドラマは終わりましたが、その後の天童先生や教頭先生、子供達の物語に

思いを馳せて、もう少し楽しんでみようと思います。

体調が悪くて、感想がなかなか書けなかったので、他の方の感想もまだ見てません。

これからブログ巡りで皆さんの感想も楽しませてもらおうと思ってます。

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2005年9月14日 (水)

なぜ勉強しなくちゃいけないの?

我が家の6年生からも、よく発せられる質問。

小学生の勉強は読み書きそろばんと言われるような基本的なことが多いから

勉強しなけりゃ、本も読めない、おつりも計算できないってことになる。

でも、勉強というのは知識を頭に入れることだけが目的ではないはず。

例えば数学で微分積分を習っても、社会に出て使う場面はほとんどない。

それなのに、どうして勉強するのか。

ひとつは、数学的考え方(物事を順序だてて、ひとつひとつ解決していくやり方)を身に付ける為だと思う。

これって何かを計画して実行するときに大事。(数学はバカの私がいうのはおこがましいのですが。)

数学に限らず、答えを出す事が勉強なんじゃなく

答えにたどり着くまでの努力や試行錯誤が勉強の意義なんじゃないかな。

知識を身につけることは大切だけど、それだけじゃなく、生きていくうえで重要なヒントが勉強の中に沢山あるはずだと思う。

しかしそんなこと、うじゃうじゃ言っても子供はピンとこないし

私もうまく説明できなくて、何とももどかしい思いをしていた。

 

「女王の教室」の真矢の答えはとても良かったと思う。

「勉強はしなきゃいけないものではありません。したいと思うものです。」

不思議なもの、理解できないもの、美しいもの、楽しいもの、

そんな様々なものに出会ったとき、もっともっとその事を知りたい、

勉強したいと自然に思うから人間なのだ。

好奇心や探究心のない人間は人間ではない。

自分たちの生きているこの世界のことを知ろうとしなくて何ができるのか。

いくら勉強しても世の中には分からない事が沢山ある。

何でも知っているような顔をした大人は嘘っぱち。

いくつになっても、どんな状況にあっても、勉強しようと思えば

いくらでもできるのだ。

好奇心を失った瞬間人間は死んだも同然。

「勉強は立派な大人になるためにするものです。」

うわ~よくぞ言ってくれました!

これって子供だけじゃなくて、誰にでも当てはまる事だよね。(ここで、ちょっと自分を振り返り反省したりする。)

学校で勉強するだけが勉強じゃない。

人間は、何時だって何処でだって勉強できる。

自ら学んでいかなくちゃならないんですね、真矢先生。

 

でも、学ぶ楽しさを教えるのも先生のお仕事なんじゃないですか。

授業に出てこない問題児を叱ったり説得したりする事も大事だが

生徒を惹きつける授業をする事が一番重要だ、と誰かが言っていた。

授業が面白ければ生徒は必ず戻ってくると。

教師は授業で勝負しなければいけないと。

確かに退屈な授業しか出来ない先生がいれば

思わずのめりこんでしまう授業をする先生もいる。

ウチの6年生は最近授業がつまらない、つまらないと言う。

たまに担任以外の先生が授業をする事があって

そういう時のS先生の授業は面白いらしい。

社会科の授業なのだが、ただ教科書通りに進めるのではなく

いろいろな歴史の裏話をしてくれるようだ。

「S先生は教科書なんか見なくても年号とか頭に入ってるんだよ。」と尊敬のまなざしで子供は言う。

きっとS先生、歴史が好きなんだろうな。

もともと社会科好きの長男にとっては、ますます興味がわいてくる授業のようだ。

勉強勉強と言うだけではなく、子供の知的好奇心をくすぐる様な授業が出来るように

先生にも勉強してもらいたいな~、なんて思う。

その点、真矢はどうなんだろうな~。

 

もうひとつの重大な質問。

「なぜ人を殺してはいけないんですか?」

最近時々耳にする質問だけど、初めて聞いた時には

「じゃあ、お前は自分が殺されてもいいのかあ!

誰かが誰かを勝手に殺していいなんて世の中に住みたいとでも言うのかあ!!」

と心の中で叫んでしまった。

子供がそんなこと言うなんて、びっくりしてしまったし、とても腹立たしかった。

長男も「あんなやつ死んでほしい、この世からいなくなればいい、ぶっ殺してやる。」

なんて物騒な事を口にしたことがあった。

腹立ち紛れで発した言葉だと分かっていたけど、

自分の言った事の意味が全然分かってないなと思ったので、私はこう言った。

「人を殺すってどういうことか分かってる?

人が一人この世界からいなくなるだけだと思ってる?

あんたが嫌いなその人にだって親や兄弟や友達がいる。

その人たちは自分の大切な人を奪われた悲しみや苦しみを一生持ち続けるんだよ。

そして、一生あんたを許さない、憎み続ける。

お父さんやお母さんだって、あんたがそんなことをしたら苦しむし悲しいし、

今のままの生活なんて出来ない。

お父さんは会社辞めなければならないかもしれない。

弟は何の悪い事もしていないのに、後ろ指差されるかもしれない。

相手の家庭を不幸に陥れて、幸せに暮らしていけるわけがない。

二つの家庭を壊してしまうことになるんだよ。

そして、あんたは死刑にはならないかもしれない。

でも罪は一生消えない。その罪を生涯背負い続けていかなければならない。

相手の家族は絶対許してくれないけど、生涯かけて償わなければならない。

あんたは人が一人いなくなるだけだと思っているかもしれないけど

自分の人生も殺してしまう事になるんだよ。」

  

真矢の答え。

「ひとりひとりの人間が持つ、家族や 愛や 夢や 希望や 

思い出や 友情を奪う権利は、誰にもありません。

残される遺族に、苦しみや 痛みや 悲しみを与える権利も、誰にもありません。

だから人を殺しちゃいけないんです。」

犯罪を犯した人間は、逃げる事はできても一生その呵責に苦しみ、

死ぬまで孤独、もう良いことは一つもなく、二度と幸せになんかなれない。

ほんとにその通り。

子供には、人の痛みを思いやり、自分を大切に出来る、そんな人間になってもらいたいと思う。

そうなれば「どうして人を殺しちゃいけないんですか?」なんて質問は出てこないはずだ。

  

ギャー、とんでもなく長くなってしまった~。

それに説教臭いかな~。

 

今回の「女王の教室」、前半の方のワンシーン、和美が真矢に

「先生が意地悪するのは(・・・中略・・・)自分たちで問題を解決させようとしてるんじゃないかなぁ・・・て」て言ったとき

真矢、一瞬 嬉しそうな顔したと思うんだけど、私の思い込み?

子供たち、みんな強くなったよね。

由介は、タタッキーがなくても平気になったし。

ひかるちゃんは笑顔がこぼれるようになった。

来週は90分スペシャル、楽しみです。

 

あっ、もう一言。

教育委員会の人の根岸さん、すごい存在感でしたね。

こういう役者さんがいるとドラマが引き締まりますね。

  

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2005年9月 6日 (火)

ちょこっと感想

「女王の教室」毎回見てますが、最近心の中で子供たちに呼びかけてしまうんです。

「そうそう、みんな良く考えるんだ。どうしたらいいか自分の頭で考えるんだ。」って。

もしかして、これが真矢の狙いなの?と毎回思うんだけど真矢にはまだまだ秘密が沢山あるようで、真意がつかめない、で、つい次回を見たくなってしまう。

製作者の罠にまんまとはまっています。

ロッテンマイヤー阿久津によって一番たくましく成長したのは和美ちゃんですね。

困難を乗り越えて、人の痛みが分かる優しい人間になってゆく、それだけでなく大勢に流される事なく自分の頭で考え行動しようとする。

なんと粘り強い和美ちゃん!(でも、こんなに強い子いないよ。)

これが、真矢の意図した事だったのか、そうではないのか・・・これでストーリーがまるっきり変わってしまうので、これからどうなるのか見逃せません。

女優陣を見ていても楽しめます。

天海祐希さん、女優よねえ~。羽田美智子さんのぽわ~んとしたおかあさん。原沙知絵さんの自信のない先生。みんな演じてますねぇ。

子役もうまい。もう既にいろいろ出ている子もいるし、これから活躍する子も多そう。

9/3の放送、篠井英介さんがとってもステキでした。あんなおばあちゃんがいる由介は幸せ者よ。

ちょっと内容がどぎついので、賛否両論あるドラマですが、私は楽しみに見ています。

 

 

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2005年8月 8日 (月)

映画の中の戦争

子供の頃(たぶん小一くらい)、友達が

「地震はよその国で戦争をしているから起きるんだよ。」と言った。

「えー、嘘だあー。」と私が言うと、「お母さんが言ってたよ!」と言い返された。

地震の話も信じがたかったが、当時の私にはこんな平和な世の中に戦争があるなんて事も信じられないことだった。

家に帰って母親から、世界のどこかで戦争が行われている事を教えられ不思議な気持ちがした。

もう少し大きくなり、ベトナムで戦争があるという事を知った。

そして新聞で、「プノンペン陥落」「サイゴン陥落」という大きな見出しを見た。

その時は、それだけの事だった。

ただ字を読んだだけ。その意味するところなど深く考える事はなかった。

 

 

大人になりいろいろな映画を見られるようになった。

戦争を題材にしたものもあった。

「ディアハンター」や「地獄の黙示録」は話題作で、心を病んだベトナム帰還兵のことは、様々なメディアで取り上げられていた。

高校生のとき読書感想文を書くため読まされた「野火」では、戦争というものに全然実感がわかなかった。もう終わってしまったものとしか、感じられなかったのだ。

でも映画などで取り上げられている「ベトナム戦争」は、なぜか気になり身近に感じられた。

そして「キリングフィールド」という映画に出会った。

子供の頃に見た「プノンペン陥落」の見出し。

その時カンボジアに何が起こっていたのか、私は初めて知った。

これは戦争の映画ではなく内戦が終わった後、クメール・ルージュに支配されたカンボジアがどのようであったかというものだが、この映画を見て初めて、「戦争」というものが私の胸に深く突き刺さったような気がする。

それまで漠然としていた「戦争」という悲劇。

それは終わってしまったものではなく、私が生きている同じこの時代に存在しているのだという事に気付かせてくれた映画だった。

映画の本編が終わりクレジットが映し出されバックには民族音楽風にアレンジされた「アルハンブラ宮殿の思い出」が流れていたと思う。

私は席から立ち上がることができずにいた。

涙が後から後から溢れてきて、ハンカチを顔に当てて暫くうずくまっていた。

そんな事は、後にも先にもこのときが初めてだった。

クメール・ルージュの少女の冷たい瞳が頭から離れなかった。

家族から切り離され、革命を遂行する純粋な子供として教育された彼女たち。

反革命分子と見なされればたとえ親でも躊躇うことなく粛清していく子供たち。

あの子達のその後を思うと胸が苦しくなった。

後になり、テレビの特集などで、その子供たちの多くもまた殺されてしまった事を知った。

この映画がきっかけになり、ベトナム戦争やカンボジア内戦に関係のある本を読んだり、テレビ番組を見たりするようになった。

ロバート・キャパや沢田教一などの事も知った。

その後もアメリカでは「ランボー」や「プラトーン」などベトナム戦争にまつわる映画が作られ、人々を狂気に落としいれた禍々しい戦争として語られ続けた。

  

「フルメタルジャケット」という映画では、主人公ではないが、海兵隊で一人前の兵士になるべくしごかれてゆくうちに、精神的に追い詰められついには自殺してしまう青年が描かれていた。

戦争というのは人間が殺人兵器になるということなのだと、改めて気付かされた映画だった。

それは「愛と青春の旅立ち」のようなロマンスも人情も人間としての成長も無縁の世界だった。

ただただ一人前の殺人マシーンになることだけを要求される。

こんな事に耐えられるだろうか。

順応してよいのだろうか。

気が変になって当たり前じゃないかと思ったとき、戦争に駆り出されていった多くの人々が同じ状況にあった事にやっと気付いた私だった。

ベトナム戦争だけではなく、全ての戦争が禍々しいものなのだ。

心を病んだ帰還兵は、いつの時代にもいたはずなのだ。

日本ではそれが声高に語られる事がなかっただけで、どれだけの人が苦しんでいたか、ぼんくらな私はやっと思い至ったのだった。

「マリアの恋人」という映画では主人公の男性は日本軍の捕虜になり、心に傷を負って帰郷した。

その後に起こる悲劇は戦争が引き起こしたもので、一応ハッピーエンドにはなっているが、彼やその家族が受けた心の傷はいつまでも澱のように残り、生涯消える事はないだろうと思う。

心の中で、戦争は終わる事がないのだ。

 

 

こうして長い回り道をして、やっと私は日本の戦争と向き合う事になった。

決して、終わってしまった事ではなかった。

戦争は終わっても、その渦中にいた人々の心の中で戦争は消え去る事はない。

先日テレビで放送された原爆に関する番組を見て、その思いは一層強くなった。

広島、長崎で亡くなられた人々の家族の方や、生きのびた被爆者の方々、その方々の中では戦争は今も続いているに違いないと思った。

そして、その記憶は風化させてはならない、世代が変わっても受け継がれていかなければならないものだ。

私達はその記憶を他人事ではなく、自分のこととして受け止めていかなければならないのだと思う。

 

「過ちは繰り返しませぬから」

主語がないあいまいな言葉だと言われるが

この主語は人類全てでなければならないと、私は思う。

 

 

長々とした拙い文章を最後まで読んでくださった方、

本当にありがとうございました。

大した知識もない私ですが、私なりの今の気持ちを書いてみました。

コメントなどいただけると嬉しいです。

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